虹が晴れる

May everything be there.

呼吸を保つ

平坦な年明けだった。肯定的に捉えている。

先月はじめた日課としてのストレッチのおかげか肩は静かにしてくれている。ときおり構ってほしそうにするが、そのときは腕を回してあげるとわずかに和らぐ。凝りというか、身体的な違和感は肩から腕や首、背中に移ってきている。背筋を伸ばしていることへの抵抗感も減っている。体の感覚を感じとり、体が気持ちいいと感じることを選んでいく。

体の言うことを聞かなかった2010年代の終わり、見事に体と心が「ぶっ壊れ」、そのままパンデミックに閉じた2020年。そこからはとにかく回復する以外に何もできなかった。何かを考えたり行動したりするには気力や体力が必要だ。しかし、日々の暮らしと仕事への対応でそれらを使い切ってしまう。そもそもがマイナスで、それをプラスに持っていきたいところなのだが、気力も体力も常に底をつく。脚が攣ったまま溺れながらに死んでいない。そういう感覚。小学生の頃に通っていたスイミングスクールを思いだす。

睡眠を改善したり、置かれている環境に馴染もうとしてみたものの、根本は変わっていない気がしていた。日々の過ごし方、仕事の量や難易度がどうであれ、心と体が整わないことにはこの先も溺れたままだ。そういう感覚がずうっと横たわっていた。

そういう曇天のなかで、去年はじめたヨガとストレッチはほとんど唯一の救いだった。このブログにも何度か書いている。徐々にではあるが、確かに自分の体の感覚が変わっていることを実感できるのだ。それをプロがサポートしてくれる。安心感とも違う。頼ってもよいという安堵。同じか。それを約1年つづけ、肩こりへの対処、一時的でない健康な体づくり、そして考え方の変化、それによる実生活での実践。この取り組みのなかで得られる実在感や生きている肌触り、こういう言葉での説明が一致するだろう道のりに今、居る。

仕事なんて遅れたりしても誰も困らない。人はみんなどこかおかしく狂っている。そういう行きすぎた達観、諦めのような心境を越え、本当の一段目、フラットからのプラスを、1ミリでいい、今年にできたらと思っている。

31日、実家。ホロで年越し。1日、元気な祖母と会う。2日、4年ぶりの友だちと初詣のち帰京。これでいい。今年もどうか、よろしくお願いします。

積み重ね

毎朝、瞑想のあとストレッチをするようになった。通っているヨガの先生が撮って送ってくれた動画を見ながら20分くらいだろうか、ひとりでストレッチをする。YouTubeに限定公開で置かれている6本の動画は、私が1日に1回ずつ再生する。再生回数が伸びていけば、私の筋肉も伸びていく。

ひどい肩こりに対処するための肩甲骨の運動。息を吸って上げて、吐いて下す。息を吸って寄せて、吐いて広げる。ハの字から吸って開いて、吐いて閉じる。肩というより、肩甲骨がここにあることを意識するのがポイント。この動画は29回再生しているので、先生のコメントを覚えてしまいそうだ。

一時期と比べれば、肩こりは良くなっている。感覚が消えていた肩甲骨まわりも意識できるようになってきた。こりを感じることもあるが、以前ほどガチガチになることは、この3ヶ月でみればないのではないだろうか。定期的な運動をせず、激しい整体もしないが、少しずつ体が変わっていっている実感がある。この実感がストレッチをつづけさせている。サービスだからとはいえ、約1年ほど付き合ってくれているヨガの先生には本当に感謝している。

もう少し書きたい気もするが、珍しく土日に両方出かけたこともあり疲れている。とくに土曜日は大仕事だった。こんなに疲れやすく、体力がないのも、いつか真剣に向き合わないと仕事どころかいずれは生活ができなくなる気がしている。大袈裟でなく真剣に。

回復

今年の1月からヨガに通っている。強めの不安を抱えがちな性格と運動をしない生活から、いよいよ無視できない不調が体に出るようになっていた。人の勧めがあり、自分では到底寄り付かないだろうヨガスタジオに通うようになった。

それまでに2年間、自主的に呼吸瞑想を実践していた経験が足掛かりとなり、先生の言うことはすんなり受け入れることができた。ちょっとしたストレッチと不安の緩和のための会話を先生とくりかえしていく。一般に想像するヨガとは少し違ったものかもしれない。

そういうことを隔週でくりかえしていると、ストレスや不安が湧きあがったときの対処が徐々にできるようになり、ぐったりして何もできない状態からの回復が早くなった。体調の波はおだやかになり、長く悩まされている肩こりもいくらかやわらいできている。ほとんど感覚がなくなっていた肩甲骨まわりの筋肉を自分の意思で動かせるようになり、少しずつだが体がいい方に変わってきている実感も感じられている。人から「元気になってきましたね」と言ってもらえるのはくすぐったいうれしさがある。

そして今では、ストレスや不安、心の不調はなくならないものの、崩れない安定感を欲しいと思うようになってきた。筋肉の感覚が戻ってきたとはいえ、意識しない状態ではまだまだ強い猫背によって体に負担をかけ、それがストレスをかけ体力を奪ってしまう。そうならないために背筋を整えて安定を得たいということである。この話を先生にしたところ、やはりけっきょく背筋を整えるということは背中だけでなく、腰や足の筋肉も整えることに繋がっており、ある程度は筋肉を鍛えてあげる必要があるという。これまでにも同じ話は何度も聞いていたが、今回改めてその必要がありますねと先生と話し、今後はもう少し体を動かして筋肉をつけていきましょう、そのときそのときのようすを見ながらね、ということになった。心を整えるには呼吸を整える必要があり、呼吸を整えるには体を整える必要があるのだ。

プロが自分の話をゆっくり聞き、体もしっかり見てくれる安心感がわたしにはとても大切なものになっている。

これを書きはじめるとき本当は、ぼんやりした日常でどうしたらいいかわからないでいる気持ちを書いてみようと思っていたのだが、気づいたらヨガの話を書いていた。

もうダメじゃない。

もうダメだ。そう思ったことは何回あるだろうか。

小学2年生。給食で出たほうれん草のおひたしが食べられなくて、産休の先生と入れ替わり臨時で担任になった年配の先生に「全部食べるまでお昼休みにしちゃダメ」をされたとき。ちなみにお昼休みを過ぎて、そうじの時間までかかった。

なぜか同時に8案件くらいを掛け持ちしていて、ただでさえ重い系の3,4案件くらいがこちらの責任なく同時に燃えはじめ、数日耐えたが脳が追いつかず限界が訪れ、床に向かって「もうダメだ」が口に出たとき。

案外2個しかない。もっと多いと見込んで書き出したが、せいぜいあとひとつ足すくらいだ。そのひとつは書きたくない。3個。思い返せばほかにいくつか思い浮かんだことはあるが、そのときはもうダメだとは思っていなかった。悪いのは今だけでいずれもとに戻ると見積もれていたり、根拠はないのになぜかそれほど精神的な苦痛がなかったりした。

そして上のふたつも、いや、書きたくない三つ目も、実際はもうダメなんてことはないのだ。こうして今でも生きてブログを書いている。明日起きたら、もう少しラクになっているだろうか。

日々日々

わたしは場所で気分が変わるのかもしれない。

先日、時間をつぶす目的で入ったカフェで2時間も仕事をした。せいぜい30分もすれば退屈で席を立つ見込みのところを、だ。集中の加減もちょうどよいここち。これで得意になった。

別の日、近所のカフェに、今度は仕事をするつもりで出かける。1時間。200円そこらで重めの原稿を片づけることができた。サクッと行って、サクッと仕事をし、軽やかにスーパーへ。悪くない。

iPhoneで使うSIMを乗り換えた(キャリアとか通信プランと言いたくない)。povoの者になり、使う通信量の分だけ買い足すようになった。いまのところ30日間3GBの980円とイレギュラーな通話料264円だけだ。何も使わなければ0円で運用できるらしい。

15年ほど前からソフトバンクホワイトプランを使っていた。ほかの会社に乗り換えれば割引がある。格安SIMというのがあるらしい。知っていたが、手続きをする面倒くささが勝り、ソフトバンクへ毎月9000円ほど払っていた。コロナ禍以降はほとんど家から出ないにもかかわらず。詳しい友人のススメとMNPの手続きが容易になったことがきっかけで乗り換えることができた。

肩はガチガチになることはなくなった。が、まだ肩が落ちきることはなく、硬さよりも違和感のような感覚が際立ってきている。気持ちを楽にしていきたい。

ゼルダはまだつづけている。3度か4度ほどやはりこのゲームに付き合うのはやっていられないとウンザリしたことはあったが、クリアするまでは仕方ないとつづけている。これを終えてからでないと気持ちよくFF16が遊べない。仕方がない。

音楽のよさはテキストで表せない。

どんなに優秀な音楽ジャーナリストのライブレポートでも伝わった感覚を得られたことはないし、楽譜ですらそこには演奏の指示しかなく、音楽そのもののよろこびは、そこにない。

聞いたことがある曲であれば、もしくは。しかし、それでも「落ちサビからラスサビ前の転調に至るきっかけところのブレスがたまらない」のような個別のテイクに対しての言及か、「年末のライブのあの瞬間を思い出して涙した」というふうな主観や記憶の描写で読み手に想像させるまでだ。

ひとりが感じた音楽の感触を、もうひとりが同じように感じることなどあるのだろうか。

いや決して同じでなくとも、同じ事象(ここでは音楽)から得た感情で、ふたりが共感できるならそれでいい。のだとも思う。

ライムスターのあたらしいアルバム表題曲『Open The Window』に感動してる。この楽曲が収録されたのは、ライムスターとして6年ぶりのアルバム。しかし収録全11曲のうち新曲は3曲のみ。そのほかは6年のあいだに単発で配信リリースされてきた楽曲で、つまりファンとしてはアルバムに対して抱く「新曲がたくさん聞ける」期待値が外れて、少なからずがっかりしていた。

が、発売されてみたらそんな気持ちを吹き飛ばすほどに、新曲のクオリティが高く、満足している。それにアルバム通して聴くと既発曲もなぜだか楽しめる。アルバムとして聞けるものになっている。

今回の収録曲の多くはタイアップがついていて、アルバム制作とは切り離されたものが多い。メンバーが出演したTBSラジオ「アフター6ジャンクション」6月20日放送のなかでも「ひとつひとつ目の前のオーダーに向き合っているだけで精一杯だった」「決して最初からこの形になることを想定して作られたアルバムではない」という趣旨のことを話していた。アルバムとしてのまとめを見据えることなく、それぞれの楽曲がバラバラに制作されていったというわけだ。楽曲がタイアップであればそうなってしまう。

しかし、その制作のなかのコラボレーションや無茶振り、これまで踏み込まなかった未体験のフィールドを経験するなかで、ライムスターは表現や手法を新たに開いていった。それを表題曲につけられた『Open The Window』というテーマで表現できる、それらを内包していることにメンバーが気づき、1枚のアルバムとして成立させる道筋が見えたのだという。非常に編集っぽい捉え方・名付け方だ。

なんだかながれでアルバム観点の小話を書いてしまったけれど、とにかく『Open The Window』ね、1楽曲として素晴らしいんで。5億点なんで。2023年のGood Musicなんで。本当ステキです。それでは聞いてください。ライムスターで、『Open The Window feat. JQ from Nulbarich』。

jvcmusic.lnk.to

梅雨とユーフォ

梅雨は何もできなくて当たり前。そんな感じのツイートを見かけた。そうだ。梅雨に生きてるだけで100点以上だ。プレッシャーを抑えるために乗っかれる言葉には乗っかっておく。

体調はまた少し良くなっている。一月か二月に一度はこう思えている。ずいぶん良くなってきたが、まだ良くなれる。元気なときはもっと元気だった。もう同じように元気にはなれないかもしれないが、体力だけでなく、精神的な豊かさというか、楽しむ余裕は年齢を重ねた方がそうなれる気がして楽観している。肩こりもやわらいでいる。

響け!ユーフォニアム』は先日、知り合いに薦めたわたしの大好きなアニメのひとつだ。複雑な人間関係にそれぞれが音楽に賭ける想いが乗っかる群像劇で、作中では吹奏楽部特有(文化部特有?)の張り詰めた空気や行き場のない閉鎖感がうまく表現されている。しかし、少し俯瞰して整理してみるとプロットは意外にシンプルな気がする。こう構成できるのは作り手が巧いからだろう。と、ここまで書けるのは人に薦めたあと自分でも懐かしくなり、アニメ1期のすべて、それからついさっき2期の1話を見返したからだ。すごくいい。わたしのユーフォはどこにあるのやら。

たびたび気になっていたマウスを買ってみた。ロジクールのLIFT for Mac。腕や肩への負担が少ないらしい、エルゴノミクス的なものだ。もう15年くらいだろうか、わたしはトラックパッド一筋だった。マウスへの交換はすごく違和感があり、うまく操作できない。ブラウザバック、アプリの切り替え、Mission Controlなど、無意識にしている操作すらままならない。すごく作業効率は落ちているのだけど、健康は何よりも優先したい。しばらくこのままようすをみる。