虹が晴れる

May everything be there.

なにを読んだらいいかわかることは幸せなことかもしれない

集英社の久保さん

気持ちがふらふらしていると本屋にいきたくなる。

このふらふらを理解してくれる本・言葉をさがしに、編集された(人が内容を担保し、区切りをつけたもの)ものの海を、無責任に泳ぎ回れる。本屋は贅沢だ。よくもまぁ、これほどの量の本をつくっているなぁと人類すげえと思うし、いかにもありふれた品位のないものや過激なものには恐怖を感じる。

情報の流通だけでなく、それを手に取り目を滑らせることを贅沢に感じる雑誌のデザインには敬意を感じる。小説なのかエッセイなのかわからないが表紙と名前がひっかかりいざとなればとAmazonで買えることを確認した本は何冊もあった。興味はあるがレジにもっていくのも憚られそうな大きな本は棚から降ろすことさえ躊躇った。

して気づいたのはわたしは何が読みたいのかわからないのだ。気になったそれを読めばいいのだとも思う。しかし、贅沢にも感じるほどの数をもって世界の幅や人々の考え・想像をこれほどまでに手に取れるというのに「わたしは、いまこれが読みたい」とつよく思えるものはないのだ。

「なにを読んだらいいのかわかっている。それが知性だ」という言葉を思い出した。思い出したのは本当に言葉だけで、だれが言ったのか。どこでなのか。むしろ本当にだれかが言ったのかさえ危うい。けれど、どこかで聞いたような気がすることと、自分からはこんな言葉がでてくるはずがないという自分自身への理解が、ほかの人間の言葉を聞いたのだという認識を強化する。脱線した。が、つまりわたしには知性がないのかもしれない。

店内を歩き回りながら、ついこのあいだ湯船で考えたことを思い出した。本を紹介するメディアはもっとあっていい。これほどの数の多様な本のなかから自分にあったものをさがすのは難しいと思うのだ。何を読むかを決めることは、人生を決めることだ。言い過ぎだが、10割否定できないことは共有できるだろう。そんなものを知性のない自分が決めようとするなら、それだけで人生が終わってしまう。いや、それ自体に取り組める人生はとても肯定できるが。しかし、わたしのようなそれほど本と付き合ってきていない人間にとって、何を読むかを決めることは、ひとりでするには重要すぎるのだ。

いや、適当に好きなの読めや、と思うのだが。

人間が丁寧に閉じたものは尊い。それをくりかえしつくるというのは、どういうことなのか。わたし、気になります