虹が晴れる

May everything be there.

5月8日

気づけば機会のある知り合い皆に、日記がおもしろいと話している。

ほどほどに共感はあるだろうとどこかで見積もっているらしく、見通しと少しちがうトーンの「そうなんだー」の声に僅かながら体がこわばる。Mac 越しにそのこわばりは伝わっていないだろうけど。一通り話せば、自分も書けばいいよと勧めてもらうのだが、私はたった1日前の昨日のことをおぼえていない。一瞬の断片は残っているけれど、それはいつにでもありそうな光景で、昨日だけの特別がないように思える。なくていいし、それでも書きはじめればどこかに転がるのだとは思うのだけど。記事はたくさん書いてきたが、日記はほとんど経験がない(10年くらい前に「日刊こたま」というのはやった。記憶があるならかなり古いフォロワーだ)。それよりも1日前のことすら断片の記憶しか残らないことのほうが身体的な心配をしたほうがいい気がする。

ラジオ収録にゲストで来てくれた知り合いの話が、考えていた感覚と通じるなと共感した。

今はnoteとかもそうですけど、当事者しか物を言えないみたいな雰囲気があって。当事者性が強いコンテンツ=最強みたいな。そうすると書き手は大変な経験をしなくてはいけなくなっちゃうんですよ。それっていいっちゃいいけど、そういうものしかないとヤバい方向に行く気がしていて。そういう大変な経験じゃなくてもっと日常的ななんでもないようなことを書きたいって気持ちなんですよね。劇的な物事が起きた当事者しかその何かを語れないみたいな状況があるような気がしていて、私もエッセイ書いてたりするので、それはやり方のひとつにしたいんです。

彼女は事実を持った当事者性と作りものを混ぜたエッセイまたはフィクションの違いを起点に話したのだけど、私が共感したのは「劇的な物事が起きた当事者しか物を語れない状況だ」という部分だった。肩書きや会社の名刺のような社会的なタグや、特別な処遇のもとでしか発言が許されないかのような雰囲気が、そのタグのない、またはタグを外したタイミングの、まっさらの個人であることを否定されているような印象を受ける。この、タグを取り払ったまっさらな個人=「ただ私である」ことおよびその発信が、仕事や家族のあり方を改めて見つめなおされている新型ウイルスによって大きく変えられてしまった人間社会においての状況や、生きていく上でまっさらな個人が存在承認を得ていくためのコミュニケーションの方法において、ベースレベルで大事なことになっている。そして、このことこそが、私が日記に興味を持っていることとへの3点での交差点なのだと気づいた。日記に興味を持ちはじめたのは去年からだが、このタイミングで奇遇な結びつき方をしたものだ。

さて、そろそろお昼ごはんを食べないと。