虹が晴れる

May everything be there.

買えない

本を読む生活をつづけたい。きっと本を読むことは豊かなことだからだ。もうインターネットは探ったり潜ったりするところではない。わたしたちが暮らす陸からはまさに別世界ともいえる深海があったのは2000年代まで。短文のメッセージが主流になった今どきのコミュニケーションのように、インスタントな意味と価値が往来するインフラであるだけだ。リンクの先には無限にリンクがあるように思えたが、それはリンク自体が期待だったのではなく、そのリンクの先には興味深いものがあると自分が信じられたことの期待だった。もはや興味深いリンクは第一階層のインデックスにすらいくつかしか見当たらない。YouTubeにすら底はあるんだと思い知った。ネットフリックスやメタバース、すごいAIとかはアレルギー反応かのように「なんか嫌」と思ってしまう。そういうものを見ず、本を読んでいきたい。ブラウザではなく書店はまるで独自の進化を遂げた生態系かのように、見たことがないものが広がっている。なんとなく知ってるようなものばかりが目につくインターネットとはちがい、本屋は知らないものだらけなのだ。素敵な表紙やデザインされた誌面。スタイルのある写真と企画。なんだ、みんなここに閉じこもっていたのか。ネットが嫌で、ここに居続けたのか。

しかし、本は買わなかった。今日も買わなかった。「ちょっといいかもな」と思える本は何冊か目についた。買わなかった。なぜか。

  • 帰りに荷物になるから
  • レジが億劫だから

思い浮かぶのはこのふたつだが、どちらもわたしの本心ではない気がする。

家に帰り、さきほど書店で目についた本をAmazonで雑に購入し、あとからゆっくり読めばいい。そうとも思ったが、それも気が進まなかった。Kindle Storeのページを何枚かロードし、ベストセラーのタグがついた小説を購入した。Kindle版で。ポイントを使ったら決済は0円だった。まったく知らない本だ。バッテリーがぎりぎりのKindle Oasisを少しだけ充電し、湯船で読みはじめた。中身は社会情勢や一般的な人たちの不安をもとに作られたであろう小説で、スムーズに読み進められた。が、冒頭から読者を不安にさせるような不穏な展開がつづいた。おそらくどこかで具体的な恐怖や危険なできごとが起こる展開になるのだろう。あぁ、小説でも怖いやつか。小説もネットフリックスなのか。いや、ネットフリックスが小説なのか。わたしが手に取った(と言えるのか)この小説がたまたまそういうものであることは明白なのだが、だが、ここまでか。不安や恐怖のない小説がいい。調べずに買ったわたしがよくない。が、そうでもしないと買えなかったんだよ。