虹が晴れる

May everything be there.

三度目のブレス オブ ザ ワイルド

もう一度、ゼルダに向かう。しかし実のところは、まだ不安がある。こう書くことで決心を後押ししてやれないものか。

前作が「ゲーム史に残る」と言われ、今作も今のところ「認めざるを得ない」「期待を超えている」といったような好評しかみていない。それほどのおもしろさをもったゲームを、それほどよくできた作りものとしてのゲームを、知らないままでいるのはどこか居心地が悪いのだ。

前作『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』はNintendo Switchのローンチタイトルだった。新ハードを伝える記事作成のためにオフィスで同僚たちが遊んでいたのをよく覚えている。それからしばらくしてからだったと思うが、なんとなく「高評価だったし」くらいの気持ちでわたしも購入した。発売時の熱は過ぎていたと思う。

『ブレワイ』は、プレイヤーに攻略の順序が要求されない自由な探索とゲームプレイが楽しめる、いわゆるオープンワールドの仕組みが採用されている。だいたいのオープンワールドではないRPGでは、シナリオの進行のなかでプレイヤーに目的と行く先が示される。しかしブレワイではだいたいの目的は示されるものの、具体的にどの道を進むのか、どこに向かうのか、どのようにしていけばいいのかはプレイヤーに委ねられている。もちろん、それがオープンワールドの魅力であり楽しむべき部分なのだろう。それにゲームスタート直後の最序盤、プレイヤーが操作するキャラクターの少年・リンクは、これから冒険する世界を見晴らしたあと、30mくらい歩けば、すぐに目的を与えてくれる謎の老人に出会うことができる。はじめくらいはガイド線を引いてやろうということだと思う。なんとなく世界が危ういことが紹介され、選択肢の選択くらいでしか言葉を発しないリンクがなぜだか世界を救いたがっているかのような空気が進行する。そして世界を救うために、いまリンクのいる「はじまりの台地」を出ていくのに必要なパラセールをくれてやってもいいが、そのためには三箇所の祠を回れという。勝手に話を進めるじいさんだとも思うが、これがわたしの好むシナリオ主導のRPGだと言われれば、少し黙らなければいけないのかもしれない。

さて、祠を回るのだが、ここからはじまりの台地を出るまでがゲームのチュートリアル部分らしい。まだはじまったばかりだ。だが、わたしはここで疲れてしまう。雑魚にはワンパンで倒され、手持ちの武器はすぐに壊れる。ボスらしきキャラクターの体力を半分まで減らしたのに、手持ちの武器がなくなり、あえなく撤退(もちろんボスの体力は全回復する)。祠が近づいているのかどうかもわからないなか、武器さがしの旅。手に入るのは木の棒だけ。道中に村はなく、人々の生活もなければ、宿や武器屋もない。ただ、美しい台地をワイルドするだけなのである。

しかしこれはこれで楽しいのかもしれない。有限の武器をいかに調達するか。有用な料理のレシピを考案する楽しみ。世界のあれこれに触れば、その反応が楽しい。風が吹き、草木が揺れて、リンクが走って、崩れた遺跡を探索し、敵にうしろから忍び寄って「ふいうち」をかける。

でも、武器が壊れたらまた探さないといけないって、ぜんぜん先に進めないじゃないですか。たった1回の戦闘で壊れちゃうんですよ。

わたしは過去に2度、ブレワイに挑戦していて、2度目ははじまりの台地を抜け、遥か彼方、雷が鳴るエリアまで到達したことがある。それがシナリオの何割程度のところなのかわからない。なにせオープンワールドである。そしてはじまりの台地を出てから、物語の進行は一切なかった記憶がある。キーアイテムを手に入れたり、デモシーンが入ったりということが。いかに世界に触れることがおもしろいとはいえ、それが遊ぶ推進力になるのも限界があり、それを感じて2度目のブレワイは幕を閉じた。

わたしがシナリオ主導のRPGを好む傾向にあるとはいえ、世間でここまでの高評価のものを楽しめないものなのか。オープンワールドが流行りはじめた2010年代の初めごろ、ファイナルファンタジーXIIIは寄り道がほとんどない1本道のリニアな設計で批判を受けた。しかしわたしはそのFFXIIIがすごく好きだった。1本道だからこそ、その1本道に集中して制作することができる。リアルタイムに進行するシナリオの山場のその場所で、プレイヤーがキャラクターを操作し、視点が変わり、マップはダイナミックに演出され、大作の世界観に没入できる。その魅力とは対岸にあるオープンワールドとはいえ、オープンワールドにリニア設計の魅力を求めてはいない。それにオープンワールドのゲームなら大好きな『Horizon Forbidden West』がある(さいきんDLCも遊んだ)。つまりオープンワールド=楽しめないというわけではないと思っている。だから、武器が壊れなければわたしのブレワイへの苦手意識はなくなるのかもしれない。

そして新作『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』の高評価である。過去に2度諦めているゼルダ。しかしゲームを遊んだ知り合いや、ゲーム制作者からも非常に高く評価されているようである。ゲームが好きで、ものづくりも好きなわたしとしてはやはり気になってしまう。これまでは「みんなの好きなものを、あなたも好きでいなくてもいい」と頭によぎる案件だった。しかし今回は「おもしろいと思うまで掘り下げてみるベクトル」をやってみることにした。

武器が壊れてもいい。シナリオが薄くてもいい。とにかく1度クリアするまではゼルダに向き合ってみる。その決意を固くするためにプロコントローラーも買った。いつか、クリアの報告をここで書けるだろうか。

夕焼けビーム

夕焼けビーム

14日のうちに1本くらいで上出来。そのくらいのペースで年末までこのブログが書けたら、今年はそれだけで満点をあげるつもり。

2020年にわたしのなかで日記ブームがあった。だれかの日常がそのままでなんかいい感じがして。すごいことは起きていないのだけど、すごいことがない日常でよくて、だからわたしもあなたもいい日だねみたいな、平和ボケみたいなものかもしれないけど、そういうものに惹かれていた。

この年にパンデミックがはじまったけれど、それは関係なかった。100年に1度かくらいの非日常だったわけだから日常讃歌を求めるながれはわかりやすい。しかしそうではなくて、生活から離れていたわたしの日々の反動だったのではないかと思う。心身の健康問題もあり、それで。

そのときはそのままさらりと過ぎて、いまでも日記を読むのは好きだ。そして横ならびでブログを読むのが前より好きだ。ブログと日記はちがう。でも、ブログで日記を書く、はある。

そしてブログを読むのは、だいたいはてなブログで読む。トップページの編集部が選んだブログが置かれているところからつまんで読む。

自分のプラットフォームのなかにある、人が作ったコンテンツを、あたかも自分のもののように使ってプラットフォームを大きくすることには、複雑な思いもある。が、はてなはそのあたり著者にリスペクトを示すことに気を割いている気がして、許せている。

こう許せているのは、選ばれたブログを読んでみると、一概にこうだと言えないまでも、選ばれるだけあると思える中身だからだと思う。情報の羅列ではなくて、ナラティブがあり、そこに人がいて、その人の体温とか目線を感じられる。こう書くと2000年代味がしてくるのだけど、でも、そういうものを編集部が選んでいるのではないかと思えるだけで、いちブログ市民としてははてなが文化を守ってくれている気がするのだ。

なぜだかはてなを褒めるながれになってしまった。でも、いいぞ、はてな。もっとやるんだ。世界でいちばん好きなブログサービス。素晴らしい。

そういうわけで、わたしもそういう人を感じられるブログが書けたらいいなぁと思っている。ただ、こうやって枠の話をしている時点でもうダメな気もするのだけど。まあ、意識せずに。また14日経たないうちに書けたらいい。

添えた写真は立川市にある昭和記念公園での1枚。連休中に友だちと散歩してきた。想像よりも広くてゆとりを感じたし、景観もよく、あの公園があることが立川に住む理由のひとつになりうる、そのくらいにいい場所だった。猛暑の夏を避ければ、1年を通して楽しめそうだ。隣接するバーミヤンで五目焼きそばを食べて帰宅。そう、こういうのでいいんだよを体現した庶民のいい休日でした。ブログっぽくそういう写真も載せたい。そのためのカメラも欲しい。その話はまた次に。おしまい。

光と自転車

光と自転車

先週の半ば、崩した体調が、まだぐずってる。水曜日だったか、夕方からひどい頭痛がはじまって久しぶりに倒れた。翌日は休むことも考えたけれど、起きたら意外と平気だったのでそのまま仕事した。だけど、それが治りきってない。

肩も硬いまま。日曜日、ヨガスタジオでストレッチしても下がらない。気持ちも重力がつよいみたいに上がらない。今日はほとんど仕事をせず休ませてもらった。今日は早く寝る。少しでもよくなるといい。

土曜日。友だちがパーソナルカラー診断の資格を取ったとかで、練習に付き合った。わたしはビビッド・ウィンターというグループの色が似合うとのことだった。はっきりした強い色でコントラストは強めが似合うらしい。診断の途中で、ふだん人から「似合う」と言われることがないことに気づいた。その友だちはけっこう思ったことをズバズバ言うタイプで、その友だちから「似合う」と言われるのは少しくすぐったい感じがした。

最近ときどき遠い未来のことを考える。10年とか20年とかの先のこと。そこまで生きられるのかとか、家があって食事ができてみたいなふつうの生活ができるのかなとか、晩年はどんなふうになってるんだろうとか。弱気もあるけど、7割くらいは現実としてどう生きるのか。どう生きられるのか。どう生きたいのかを考えているんだと思う。

買えない

本を読む生活をつづけたい。きっと本を読むことは豊かなことだからだ。もうインターネットは探ったり潜ったりするところではない。わたしたちが暮らす陸からはまさに別世界ともいえる深海があったのは2000年代まで。短文のメッセージが主流になった今どきのコミュニケーションのように、インスタントな意味と価値が往来するインフラであるだけだ。リンクの先には無限にリンクがあるように思えたが、それはリンク自体が期待だったのではなく、そのリンクの先には興味深いものがあると自分が信じられたことの期待だった。もはや興味深いリンクは第一階層のインデックスにすらいくつかしか見当たらない。YouTubeにすら底はあるんだと思い知った。ネットフリックスやメタバース、すごいAIとかはアレルギー反応かのように「なんか嫌」と思ってしまう。そういうものを見ず、本を読んでいきたい。ブラウザではなく書店はまるで独自の進化を遂げた生態系かのように、見たことがないものが広がっている。なんとなく知ってるようなものばかりが目につくインターネットとはちがい、本屋は知らないものだらけなのだ。素敵な表紙やデザインされた誌面。スタイルのある写真と企画。なんだ、みんなここに閉じこもっていたのか。ネットが嫌で、ここに居続けたのか。

しかし、本は買わなかった。今日も買わなかった。「ちょっといいかもな」と思える本は何冊か目についた。買わなかった。なぜか。

  • 帰りに荷物になるから
  • レジが億劫だから

思い浮かぶのはこのふたつだが、どちらもわたしの本心ではない気がする。

家に帰り、さきほど書店で目についた本をAmazonで雑に購入し、あとからゆっくり読めばいい。そうとも思ったが、それも気が進まなかった。Kindle Storeのページを何枚かロードし、ベストセラーのタグがついた小説を購入した。Kindle版で。ポイントを使ったら決済は0円だった。まったく知らない本だ。バッテリーがぎりぎりのKindle Oasisを少しだけ充電し、湯船で読みはじめた。中身は社会情勢や一般的な人たちの不安をもとに作られたであろう小説で、スムーズに読み進められた。が、冒頭から読者を不安にさせるような不穏な展開がつづいた。おそらくどこかで具体的な恐怖や危険なできごとが起こる展開になるのだろう。あぁ、小説でも怖いやつか。小説もネットフリックスなのか。いや、ネットフリックスが小説なのか。わたしが手に取った(と言えるのか)この小説がたまたまそういうものであることは明白なのだが、だが、ここまでか。不安や恐怖のない小説がいい。調べずに買ったわたしがよくない。が、そうでもしないと買えなかったんだよ。

「AI疲れた」って言えない雰囲気を感じているのがつらい

倫理や安全性に懸念はあるが、それを遥かに超える利益がある。ものの考えかたや方法論が変わり、世界の変化も大きく起こる。それもこれからの未来でずっと。わかる。

けど、わたしはつらいんよ。

AIの話題に疲れた。「ツイッター見なきゃいいじゃん」、そのとおり。

あまりにもAIを使った事例と、それに理解を示し、可能性にワクワクしていますみたいなツイートばかり。「お前のフォローとか、ツイッターのレコメンドでしょ」、そのとおり。

でも、なんかAIの使用に関わることに少しでも懸念を示そうものなら「あいつはわかってない」「この可能性が理解できないんだ」「価値観を変えられない旧人類だ」と言われそうな雰囲気を感じている、わたしが。

そして懸念を示すツイートを「わたしが」見かけていないことが、「もしかしたら、ほかの人もこういう雰囲気を感じているからツイートしないんじゃないか」と考えてしまうことに繋がる。

マイクロソフトが責任あるAIの原則が実際に出荷される製品の設計に反映されるようにするチーム全員を解雇したと報じられたのは3日前のことだ。この解雇の前、そのチームメンバーがAIが社会に及ぼす悪影響を懸念しているとAI担当副社長に伝えたが、CTOとCEOから迅速に製品を出荷するプレッシャーを受けている副社長は「(チームメンバーの配置転換を)考え直そうとは思わない」と言ったという。

2023-03-06 月曜日

 珍しく8時まで寝ていた。前の晩、ベッドに向かう時間が遅かったからだ。普段とちがうのはそれくらいで、ほかは何も特別なことはない。なのになぜか、自然とTodoが手につき、進めていった。

 数ヶ月手付かずだった、粗大ゴミ回収の手続きをした。ウェブで申し込みをしたあと、項目になかった品目を追加するために自治体の窓口に電話。対応してくれたのは早口めの女性で、少し食い気味に話す。話していて、正直すこし怖かった。マイクアームとデスク用のケーブルトレーを回収に追加してもらったあと、ウェブで申し込んだ品目に関しても細かな確認をしてくれた。口調は怖かったが、手続きは丁寧にしてくれた。びくびくしながらも「ありがとうございます」と言って電話を切った。こちらが切る前にあちらが切っていた。

 確定申告を終わらせた。3月に入っても何もしておらず、どうしようかと思っていたところで知り合いが声をかけてくれたことをいいことに、その申し出を駆け込み寺にして、一気に申告書をつくるところまで終えた。それが土曜日のことだ。今日は申告書をe-Taxで提出し、口座振替による納税までした。口座振替の申請もウェブでできるようになったらしく、マイナポータルとe-Taxの連携はよくわからない挙動で混乱したところもあったが、なんとか終えることができた。正直いうと、納税額には身の危険を感じた。収入額の入力をまちがえたのではないかと思い、申告書を作ったあとだというのに再度内容を確認した。まちがっていない。これがYouTuberなどが贅沢できない、むしろお金がないと言っているやつだ、と思った。わたしはそこまでは稼いでいないが、ひとりで暮らすには困らないほどには働いている。が、今年の納税額には身の危険を感じた。稼いじゃだめだ。いや、だめではないのだけど、身に余る危険を感じて怖い。今年は慎ましく、暮らす。

 その身の危険で落ちつかず、昼過ぎまでドキドキが止まらない。意識して呼吸を深くしたり、瞑想のセッションをしたりした。

 少し落ちついてから後回しにしてしまっていた執筆仕事をひとつ。ネタとなんとなくの方向性は決まっていたので、書きはじめてからはスムーズに書けた。答えがない類のもので、少し嫌に感じる人もいそうなネタだったので自分を悪者に仕立てるような書き口にした。こんな書き方はじめてだった。そんな内容であることもあり、一晩寝かせてまた明日読んでみる。

 今もまだ、どきどきしている。

なにを読んだらいいかわかることは幸せなことかもしれない

集英社の久保さん

気持ちがふらふらしていると本屋にいきたくなる。

このふらふらを理解してくれる本・言葉をさがしに、編集された(人が内容を担保し、区切りをつけたもの)ものの海を、無責任に泳ぎ回れる。本屋は贅沢だ。よくもまぁ、これほどの量の本をつくっているなぁと人類すげえと思うし、いかにもありふれた品位のないものや過激なものには恐怖を感じる。

情報の流通だけでなく、それを手に取り目を滑らせることを贅沢に感じる雑誌のデザインには敬意を感じる。小説なのかエッセイなのかわからないが表紙と名前がひっかかりいざとなればとAmazonで買えることを確認した本は何冊もあった。興味はあるがレジにもっていくのも憚られそうな大きな本は棚から降ろすことさえ躊躇った。

して気づいたのはわたしは何が読みたいのかわからないのだ。気になったそれを読めばいいのだとも思う。しかし、贅沢にも感じるほどの数をもって世界の幅や人々の考え・想像をこれほどまでに手に取れるというのに「わたしは、いまこれが読みたい」とつよく思えるものはないのだ。

「なにを読んだらいいのかわかっている。それが知性だ」という言葉を思い出した。思い出したのは本当に言葉だけで、だれが言ったのか。どこでなのか。むしろ本当にだれかが言ったのかさえ危うい。けれど、どこかで聞いたような気がすることと、自分からはこんな言葉がでてくるはずがないという自分自身への理解が、ほかの人間の言葉を聞いたのだという認識を強化する。脱線した。が、つまりわたしには知性がないのかもしれない。

店内を歩き回りながら、ついこのあいだ湯船で考えたことを思い出した。本を紹介するメディアはもっとあっていい。これほどの数の多様な本のなかから自分にあったものをさがすのは難しいと思うのだ。何を読むかを決めることは、人生を決めることだ。言い過ぎだが、10割否定できないことは共有できるだろう。そんなものを知性のない自分が決めようとするなら、それだけで人生が終わってしまう。いや、それ自体に取り組める人生はとても肯定できるが。しかし、わたしのようなそれほど本と付き合ってきていない人間にとって、何を読むかを決めることは、ひとりでするには重要すぎるのだ。

いや、適当に好きなの読めや、と思うのだが。

人間が丁寧に閉じたものは尊い。それをくりかえしつくるというのは、どういうことなのか。わたし、気になります